最近、共著論文[HMSW]を公開し、SNSやセミナーでは若干の宣伝活動を行なったが、ブログには書いていなかった。ので、改めてこちらで研究成果の一部を紹介したい。
イントロダクション
を2以上の整数とする。Riemannゼータ値
の面白さはBasel問題の時代から人類にバレていたが、よく知られているようにEulerの定理によってが偶数であるものの間には代数関係がある。一方、
が奇数であるRiemannゼータ値らは独立だと予想されている。
多重ゼータ値はその面白さが中々人類にバレなかった。を正整数の組とし、無限級数の収束性のために
を仮定しておく。
が多重ゼータ値で、シグマ記号の下側の記述の意味は「を満たす整数の組
全体をわたる和」である。
に限るとEulerやGoldbachも実質的に扱っていたことが知られているが、Eulerの仕事を除くと、近年まで注目されることがなかった。計算の途中などで現れることなどはあったかもしれないが、このような無限級数が主役級に面白いと思われることはどうやらなかったようで、あのRamanujanやErdősにも見逃されている。ようやくバレ始めたのが1990年代頃になってからなのである。
多重ゼータ値の面白さ・重要性の1つは数学の色々な場面にこの数が現れることが判明してきたことにあるだろう。金子昌信教授の取得した科研費の課題名に見られる「多重ゼータ値がかくも多方面に現れるのはなぜか」が印象深い。一方、多重ゼータ値そのものに対する基本的な興味は関係式を調べることである。
Riemannゼータ値と比較した際に著しい点は、多重ゼータ値の積が標準的な方法で多重ゼータ値の線形和に展開できることだ。例えば、Eulerの公式はRiemannゼータ値の代数関係
を教えてくれるが、右辺は多重ゼータ値の線形和に展開することができて、
という多重ゼータ値の線形関係式に化ける。こうして、多重ゼータ値の間の関係式のうち、線形関係式を調べることが基本的であると了解される。経験則として、多重ゼータ値の線形関係式に現れるの括弧内に現れる成分の総和は一定である(Goncharovの予想)。上の例では4だ。この総和が3の場合の例として、Eulerは
を実質的に証明している。このように多重ゼータ値の間の線形関係式が実在することがわかった。それら1つ1つが立派な公式であるが、どうやらこのような線形関係式は大量に存在するらしい。それで、我々はそれら線形関係式の「全て」を求めようと研究しているのだ。
そのような研究は確かに1つの仕事であることには疑いようがないが、それが面白いか、魅力的かはやってみないとわからない。この30年間ほどの研究の蓄積により多重ゼータ値の満たす線形関係式の全体像が朧げながら見えてきたが、発見された法則や予想は実に魅惑的なものであった。そしてそのような発見は今も増えている状況である。なので、多くの人に新規参入をお勧めしたい。
この記事では数ある話題の中でも、Hoffman予想に焦点をあてる。
Hoffman予想
Hoffman予想は素朴でありながら、実に不思議で美しい予想だ。曰く、任意の多重ゼータ値は成分が2か3のみであるような多重ゼータ値の有理数係数線形結合で表される。
うーん。何でだよ。定義を見てもそんなことは全く予期できそうにもない。多重ゼータ値の定義を見て「あー、2と3だけで全部得られそうだな」と思う人がいるだろうか。
成分の総和が7までの例を全て見てみよう。
この後、成分の総和が幾つになっても常に正しいというのである。ここには何か深い数学があるに違いない。
実は、驚くべきことにHoffman予想は正しいことが既に証明されている。証明した偉大なる人物はFrancis Brownだ [B]*1。証明には混合Tateモチーフの理論が用いられ、原論文はそんなに長くないものの、前提知識も含めた証明の全体となるとその量は膨大となる。私は理解していない。[BGF]と[Y]が解説論文であり、[BGF]は500ページを超えているが、それでもself-containedではないらしい。
なお、Zagierの次元予想とよばれる別の予想と合わせると、Hoffman予想の言っている関係式(すなわち、上の数値例の続きを全部考えたもの。それぞれの展開は予想としては一意的。)(を組み合わせたもの)で多重ゼータ値の間の線形関係式は尽くされる。つまり、イントロで述べた研究目的が(「ある意味では」。「部分的に」と言った方がいいかも)達成されるのだ!
しかしながら、Brownによる証明手法では多重ゼータ値を2と3のみを成分に持つ多重ゼータ値の有理数係数線形結合で表すことができることはわかるのだが、それが具体的にどのような係数になるのかは教えてくれないし、それを計算するための具体的なアルゴリズムも得られない。Brownの定理だけでも十分すぎるぐらい凄い結果だけれども、できればアルゴリズムも欲しいなあ。あと、係数に規則とかあるのかな。
アルゴリズムと整構造
この節の内容は少しく専門的である。[HS1]において、広瀬・佐藤が交代多重ゼータ値の空間(それは多重ゼータ値の空間より広い)の予想基底を見出し、その予想基底による展開アルゴリズムをBrownとは全く異なる初等的な方法(レベル2の合流関係式を用いる)で与えている(Brownの定理の対応物はそれ以前にDeligneが示している)。前節のHoffman予想の展開に対する具体的アルゴリズムは知られていないとずっと思っていたが(そう書いてある文献もあったし、そう言っている人もいた)、実は知られているということを最近広瀬さんに教えていただいた。それは、多重ゼータ値を交代多重ゼータ値の空間において広瀬・佐藤の基底で展開しておいて、線形代数を用いてHoffmanの基底に変換するというものだ(motivicな世界では対応物は本当に基底になっていることが証明済み)。
だもんで、それで研究は完了!とも言えるのだが、一応まだやってみたいことはある。上記アルゴリズムは理論的保証としてBrownらによる混合Tateモチーフの理論の帰結を利用する必要がある。一方で、広瀬・佐藤による証明はもっと初等的だ。下の世界の高等な理論と上の世界の初等的な手法でわかるアルゴリズムを組み合わせるという方法論はそれはそれでめちゃくちゃ面白いが、上の世界では直接的な議論が可能だったのだから、下の世界でも直接的な証明を探したいという欲求は自然ではないだろうか。
また、Hoffman予想は定性的予想であり、その先の具体的アルゴリズムを追い求めているわけであるが、更にその先に解き明かされていないとある定性的予想があって、ニッチではあるが個人的にとても魅了されている。
それは、Hoffman予想の展開における係数が常にに属するという予想だ([HS2]のRemark 15で言及されている)。簡単に表現すれば、係数の既約分数表示における分母が必ず奇数になるということ。このようなある種の整構造を解き明かすことは今後の数学において重要な気がするのであるが、「上の世界」を利用しない直接的な方法で具体的アルゴリズムを見出すことによってこの予想を解決できないだろうかというのが個人的な期待である(というのも、「上の世界」における広瀬・佐藤の結果においては同様の整構造まで既に示されている)。
金子・坂田の公式と村原・坂田の公式
大きな成果は大々的に取り上げられるが、実際の研究は部分的な結果を積み重ねていくことが普通である。昔、先輩研究者から言われたことの受け売りではあるが、成分が2と3のみの多重ゼータ値で展開できるということは、当然ながらより弱い主張として、成分に1を全く含まない多重ゼータ値で展開(これを、以下では「1落とし」と表現する)できるということになる。初等的な証明や具体的アルゴリズムを追い求めるにあたって、まずは弱い方である1落としから研究を始めるべきだろうという考え方があった。この受け売り知識を得るよりも前に、そのスタート地点といえる金子・坂田による研究[KS]があったので、そちらを簡単に紹介しよう。
金子・坂田はを2以上の任意の整数として、左側からずっと1が並んで最後に
が現れる多重ゼータ値
の1落としを与える明示的な公式を証明した。例えば、
について、Hoffman予想の展開では
であったが、金子・坂田の1落とし公式を使うと
が得られる。係数が整数であり、これはこれでシンプルである。
金子・坂田の公式をより一般の場合に拡張したいと考えるのは研究者であれば自然な欲求である。実際に村原・坂田が金子・坂田の公式の非常に自然な一般化を見出しているが、例えばその具体例として
が挙げられる。左辺には確かに金子・坂田の公式では扱えなかった多重ゼータ値が現れており、右辺には確かに1を成分に持たない多重ゼータ値のみが現れている。が、左辺は和をとっているため、和をとらずに,
,
のそれぞれを1落としするような形での金子・坂田の一般化にはなっていないという状況であった。
新しい整構造
今回公開した共著論文[HMSW]の主要な研究成果は、金子・坂田の1落とし公式の所望の一般化が得られたということである。すなわち、「任意の多重ゼータ値は成分に1を全く含まない多重ゼータ値の線形結合で表すことができる」という定理を、初等的な手法で、具体的なアルゴリズム付きで証明した。具体例で見ると
となる。足し合わせると、見事に村原・坂田の具体例に一致することがわかる。
ちなみに、Hoffman予想の展開は
となるが、[HMSW]の1落とし展開は常に整数係数となる。
実はこれは全く予想されていなかった現象である。「アルゴリズムと整構造」の節で述べた研究目標の観点では途中成果ではあるが、Hoffman予想の展開の場合、整構造とは言ってもで2進整数であることしか予想されておらず、他の素点について何か言えるかどうかは不明である。実際の具体例を見ても中々激しい分数が現れる。一方、[HMSW]の1落とし展開は
係数であり、その証明方法にまで踏み込めばわかることとして、(1落とし展開の方法は明らかに一意的ではないにもかかわらず)ある意味では標準的な展開といえる。うひょひょひょヒョひょひょ。
おまけ
成分の総和が8の場合のHoffman予想の展開
追記
[HMSW]の1落とし展開を与えるプログラムを共著者の前阪さんがwebページに公開されました:
infseries.com
参考文献
[B] F. C. S. Brown, Mixed Tate motives over , Ann. of Math. 175 (2012), 949–976.
[BGF] J. I. Burgos-Gil, J. Fresan, Multiple zeta values: from numbers to motives, http://javier.fresan.perso.math.cnrs.fr/mzv.pdf
[HMSW] M. Hirose, T. Maesaka, S. Seki, T. Watanabe, The -module of multiple zeta values is generated by ones for indices without ones, arXiv:2505.07221
[HS1] M. Hirose, N. Sato, The motivic Galois group of mixed Tate motives over and its action on the fundamental group of
, preprint, arXiv:2007.04288
[HS2] M. Hirose, N. Sato, Block shuffle identities for multiple zeta values, arXiv:2206.03458.
[KS] M. Kaneko, M. Sakata, On multiple zeta values of extremal height, Bull. Aust. Math. Soc. 93 (2016), 186–193.
[MS] H. Murahara, M. Sakata, On multiple zeta values and finite multiple zeta values of maximal height, Int. J. Number Theory 14 (2018), 975–987.
[Y] 安田正大, 多重ゼータ値のHoffman基底, RIMS Kôkyûroku Bessatsu, B51 (2014), 375–433.
*1:金子先生の「「多重ゼータ値」小史」と題する報告記事の最後に、証明当時のエピソードが書かれており興味深い。